月光

 閉め残した鎧戸の隙間から、蒼い光が零れ落ちる。
 私は手を止め、明かり取りの窓を見上げた。
 今夜は眩しいくらいの月夜。ランプの油も節約できるだろう。

 月明かりの注ぐ机の上には、細く裂かれた布切れがわだかまっている。
 洗い晒したシーツだったそれは、明日には傷を覆う包帯となる。
 手の中に粗い木綿の布を巻き取りながら、私は溜息をついた。
 何もかも足りない、ガーゼも、薬も…食べるものさえも。
 戦争が始まって、もうどのくらいになるのだろう。本当に必要なごくわずかのものさえ、今では容易には届かなくなっていた。
 柱時計の振り子が、静寂の中に時を刻む。私はふとその文字盤を見た。いつしか夜は更け、病室を見回る時間が来ようとしている。
 巻き終えた包帯をまとめ、手提げのランプに火を入れて、私は椅子から立ち上がった。

 古びた教会、聖堂へと続く石の廊下に、私の足音だけが響く。
 閉ざされた窓の向こうには、鬱蒼とした森が広がっている。他には何もなかった。兵隊たちが来るまでは。
 ただ祈りを捧げるための、静かな日々。修道女として厳格な規律に縛られるだけの、息苦しい日々――。


――何もかも、失ったと思った。
 あの日、この教会に連れて来られた日に。

 華やかだった、歓楽街での暮らし。
 お金はいくらだって手に入り、欲しいものは何だって買えた。
 流行のドレスに、ハイヒールに、香水。お酒や煙草。
 宝石の輝く指輪や、首飾りやイヤリング……
 私を求める男たちが、あらゆる高価なものを私に与えてくれた。

 けれど。

 唐突に、私はそこから引き離された。
 私の顔を上げさせた警官が訊ねる。
「君はいくつだね? 子供のしていい仕事じゃない。」

 幼すぎたことが、私の罪。
 この教会は牢獄、尼となることが、私への罰――。

――退屈な生活が、どれほど続いたろう。
 深い森の静寂は、やがて破られた。
 銃声と悲鳴と怒号。
 砲撃の轟音が樹々を揺さぶり、森は戦場になった。
 教会は接収されて軍の病院となり、私は、俄か仕込みの看護婦となった。

 急ごしらえの病院は、まもなく怪我人であふれた。
 担架で運び込まれる兵隊たちの姿に、私は竦んだ。ぼろぼろの軍服は血と泥で汚れ、傷を覆う布は役に立たず、染み出した血で濡れている。
 ぐったりとした身体が手術台に横たえられ、軍医が仮包帯を解くと、開いた傷口から新たな血が溢れた。

 血のにおい。泣き叫ぶ声。
 震える手で口を押さえて立ちつくす私を、軍医が叱咤した。
「看護婦! 何をしている!」
 声に弾かるように、私は前に出た。
 命じられるままに差し出した手を温かな血が濡らし、床へと滴った。

 泣き言をいう余裕はなかった。
 夜が明ければ砲声に起こされ、日が暮れても、皆が寝静まる夜更けまで微睡(まどろ)むこともできない。
 だがいつからか、眠る時間さえ惜しいと思うようになった。ここにいれば、するべき仕事はたくさんあった。
 呻き声や叫び、ぞっとするような負傷兵の姿に慣れることはなかった。だが、本当に辛いのは、私ではなく傷ついて苦しむこの人たちなのだ――そう思うと、自然と足は進み出た。
 軍医の助手として、兵隊たちの世話をする看護婦として、私は休みなく働いた。
 安全を求めて他の修道女たちが去った後も、私はここを離れなかった。


 重く軋む聖堂の扉を、そっと開く。
 かつての祈りの場所は、今は簡易寝台の並ぶ病室となっている。
 私はランプを掲げ、寝台の列を縫って歩いた。
 闇の中で揺れる淡い光が、そこに身体を横たえる一人ひとりを照らし出す。
 こうして彼らの眠る顔を見、静かな寝息を聞くと、ほっとした気持ちになった。

 街にいた頃、部屋の窓からよく眺めたものだ。
 行進のように歩調を合わせ、軍歌を歌いながら通りをゆく兵隊たち。
 窓を見上げて手を振る彼らに、私は投げキスで答えた。

 プレスされた制服、磨き上げられたブーツ。
 かつて、それらを得意げに纏っていた兵隊たち。
 今、彼らが身体を休めるのは、よい香りのする(ねや)でも、清潔な兵舎でもない。
 擦り切れかけた軍服を夜着とする、暗い、血と汗のにおいのこもる病室――それでもここは、戦いからも死からも逃れた安息の場所だった。

 静かな息づかいに交じり、ときに寝言や、寝返りをうつ衣擦れの音が聞こえる。
 どんな夢を見ているのだろう? 彼らの帰りを待ちわびる、家族や恋人の夢だろうか。
 ひとつの寝台に歩み寄り、ずれた毛布を直しながら、私はその兵隊の寝顔を見つめた。
 せめて夢の中で、この寝台が、故郷の家のベッドになれば。

 ここに運ばれてくることが、故郷に帰れることにはならない。
 傷が癒え、身体が動くようになれば、再び戦いへと駆り出される。
 軍医の許しを待たず、ここを抜け出す者もいる。彼らは今も戦いつづける戦友のもとへ戻るのだ。自分の傷の痛みに構わず。

 そう、ここでは誰もが、自分ではなく他者のために働くことを知っている。

 いつか、私は病室をひと巡りしていた。
 聖堂の戸口に立ち、寝台の兵隊たちを振り返る。

 彼らは皆、戦ったのだ。
 愛する誰かと祖国のために。
 ある者は深く傷つき、ある者は命をも捧げた。
 今ようやく戦いを離れた彼らに、本当の安息が訪れることを強く願う。

 もと来た廊下へと、私は扉を押し開けた。
 それを再び閉ざす前に、そっと心の中で囁く。
――おやすみなさい。

 石の廊下を、私は自分の寝台へと向かった。
 私も眠らなければ。あと何時間かで、また一日が始まる。

 通りを見下ろすあの部屋で、決して知ることのなかった静かな夜。
 彼らがここに来、彼らの看護婦となって初めて、私は満ち足りた思いで眠れる夜を得た。
 やがて穏やかな朝が訪れることを、心から(のぞ)める夜を。

 寝台の前にひざまずき、そっと両手の指を組む。
――主よ、あなたに感謝を捧げます。

 金に染めていた髪は、もとの栗色に戻った。
 口紅も、そばかすを隠す白粉(おしろい)もない――けれども皆、私に微笑みかけてくれる。
 どんな抱擁や接吻(くちづけ)より、触れあう手の温もりだけで、こんなにも自分が必要とされていると分かる。
 血に染まった修道衣は、私にとっての聖衣だ。

 降り注ぐ月の光に、私は祈る。
 主よ、どうか御加護を。
 私ではなく、戦う者らに――

−Das Ende−
Update: 05/01/19
Copyright 水洲佳月

†『月光』について†

昨年、ネタ切れのときに頂いたお題(従軍看護婦)から想像して書きました。
こんなのでいかがでしょうか?かなんさん(^_^;)
実はクリスマスまでに仕上げる予定が、年を越してしまいました(爆)

以前にも増して、何も調べてません…。
教会の構造とかお祈りの仕方とか野戦病院の運用とか…いろいろおかしいはず(汗)
お気付きの方はご一報下さいm(_ _)m

英語の"Sister"に相当するドイツ語が"Schwester"(シュヴェスター)なのですが、
「姉妹」「修道女」だけでなく「看護婦」を意味することもあるそうです。
(→三修社検索ページ(別窓) http://www5.mediagalaxy.co.jp/sanshushadj/)
もともとセリフで使う予定だったんですが、どうにも盛り込めなくなってカットしました(-"-;)

ここまで読んで下さった方、お付き合い下さりありがとうございますm(_ _)m
掲示板、メールなどでご意見ご感想を頂けると嬉しいです(^_^)

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